切迫早産の体験談‐part1‐
私は第2子である息子を妊娠中に切迫早産を経験しました。
その息子も無事に産まれてくれ、5月18日でもう3歳になります。
あの時の経験がなければ、今こうして活動はしていないと思います。
5月がくると今でも3年前を鮮明に覚えていて、2回目の妊娠は辛くて
家族にも職場にも申し訳なく思っていました。
けど、ケアの必要性を気づかせてくれた息子に「ありがとう」と伝えたい。
同じ経験をする女性が減ってほしいと思い、少しずつ当時のことを振り返っていければと思います。
1人目のときと違い、思うように動けず辛いことだらけでした。
どうして辛かったのか?
- 最後まで働けなかったこと
- 娘(当時2歳)を抱っこしてあげれなかったこと
- どこにも出かけれなかったこと
- いざ動こうとすると痛みだらけで動けなかったこと
娘がいたり、里帰り出産を考えていたりで入院は絶対にしたくなかったため、できるだけ自宅で安静をして過ごした日々です。
幸いにも入院は免れましたが、学びを進めている今では「妊娠前にもっとケアをしておけば、私の切迫早産は防げたかもしれない」と後悔しています。
切羽期早産と診断されるまで
妊娠5ヵ月(妊娠16~19週)を過ぎ
やっとつわりが落ち着いて安定期に入り安心していたころ
毎日仕事と娘の育児に追われ、横になるのは寝るときくらいで
常にお腹の張りを感じていました。
当時病院で勤務していて介助の量は減らしてもらいつつも、自分の体の使い方次第で患者さんを車椅子に乗せる手伝いはしていたり、介助が重たい方もベッドの横で関わったり他のスタッフの負担が増えないよう頑張っていました。
お腹の張りは感じつつ、張り止めを処方され薬を飲みながら毎日仕事をしていて、毎日張りがあると張りの痛さに慣れてきている自分もいました。
1人目の時もお腹の張りはありつつも産休に入るまでもっと働けていたので「これくらい大丈夫!」と思っていました。
ただ、1人目とは違い保育園での送り迎えで娘を抱っこしたり、帰ったら仕事の疲れがあっても横になれず家事育児が待っていました。
そんな日々が続き、私の体が耐えれなくなり
ついに妊娠24週の検診で子宮頸管長が2㎝に迫っていたところで
「自宅安静」のドクターストップがかかりました。
産休まで3ヵ月近くあったため、突然の出来事で上司に伝えるのに申し訳ない気持ちでいっぱいで泣きながら電話したのを今でも覚えています。
そのとき、上司からは「仕事の変わりはいるけど、赤ちゃんを守れるのはママしかいないから」と優しい言葉をかけてもらい、さらに泣けました。
切迫早産と診断されてから
さらに辛かったのは
当時、2歳であった娘の抱っこもしてほしいときにしてあげれないことでした。保育園の帰りはまだまだ甘えたい時期だったと思いますが、理由も伝えてしっかり伝えて座りながら膝の上でハグをして我慢してもらいました。
しかし甘えたいときは「立って抱っこ」とせがまれ
何度も泣かれたことに「だっこしてあげれなくてごめんね」と
胸が苦しかったのを今でも覚えています。
幸いにも周りの協力があって休みの日はパパや友達、家族が娘を連れだしてくれ寂しさを紛らわしてもらいました。
そのころからパパとの絆も深まってきたと感じます。
やはり私も一緒に出かけたい気持ちでいっぱいでした…
正期産がくると…
約3ヵ月も自宅安静にして正期産に入り、いざ先生から動いていいよと言われると
嬉しさの反面、その時にはすでに筋力が落ちていたので
重たいお腹を支えたり、寝返りをするだけで腰や仙骨・恥骨・股関節といたるところに痛みが出て腰ベルトが欠かせない日々でした。
妊娠時のケアをたくさん検索をして調べましたが探しきれずケアは旦那さんに痛い所をマッサージしてもらったり自分では会陰マッサージくらいしかできていませんでした。
今だったらお腹の張りや出血がないか確認しながら「寝てできるケアの方法もたくさんあったなー、もっと早く知っておけば」と後悔しております。
37週くらいから子宮口3センチ近く開いていて
先生からもいつでも産まれてもいい状態と言われながら
陣痛が来ず、、
恥骨の痛さに「早く産んでしまいたい」気持ちでいっぱいでした。笑
予定日ぴったりの5月18日を選んで産まれてきれくれました。
まとめ
2人目の妊娠を通して辛いことをたくさん経験したと同時に「周りの人を頼る」こともたくさん覚えました。そして自宅安静中もできたこと、もっと早く体のケアをしておけばと後悔の気持ちもたくさんあります。
そんな経験を経ての今があります。
たくさんのことを気づかせてくれた息子に感謝しつつ
今度は困っている妊婦さんママたちの手助けができたら嬉しいです。